TOKYOism COLUMN VOL.04
tokyoism
Column2019.10.11

Look Up~見上げた空に浮かぶ夢~

そのサッカー人生で、心と体を軽くする言葉に数多く出会ってきた。
耳に残る音韻が、彼を誰よりも高く飛ばすのかもしれないとさえ思わせる。
心が折れそうな時、いつも誰かが背中を押してくれた。
その優しさで、彼は一歩でも前に出ようと足を動かしてきた。
見上げた場所にある夢へ――。
渡辺剛は、一歩でも近づこうと懸命に“いま”を重ねている。

阻んできた多くの壁

人間ができていないせいか、彼のことをちょっとズルイなと、うらやましく思ってしまう――。

“その彼”は2019年10月3日、翌年の東京五輪を目指すU-22日本代表リストの中に名前が初めて入った。「おしゃべりが好き」という彼=渡辺剛が、ようやく子どものころからずっと周りに言い続けてきた、スタートラインに立った。


そこは、誰にも譲れない場所だ。相手GKが高く蹴り上げたボールを見上げ、目標に狙いを定める。屈強なFW相手に怯むことなく、落下地点を読んでグッと地面を踏み込む。宙に体を浮かせ、一瞬でも早く頭を押し出す。額を通して体全体にボンッと音が響き渡る。以前はそんなに好きではなかったはずなのに、いつからかそれが心地良く思えるようになった。そんな高さと速さを兼ね備えたセンターバックは、そのサッカー人生で、いくつもの壁に阻まれてきた。その度に誰かに背中を押され、不安と安堵を行ったり来たりしながら次の一歩を踏み出してきた。

「正直、何度か心が折れかけたこともあった。上を目指すのは厳しいのかなとさえ思ったこともある。でも、その度に両親や、周りの人が僕に期待してくれた」


兄の背中を追い掛けるようにして、物心がつく前からボールを追い掛けてきた。生活の全てがサッカー中心になるほどのめり込んだ。小学生(大袋FC/FC東京サッカースクール)のころは攻撃的なポジションで足の速いドリブラーだったが、中学進学と同時にFC東京U-15深川に入り、ポジションを下げてボランチにコンバートされた。理由は「周りと比べて技術もなかったし、体も小さかった。身長は中学2年生までクラスで前から数えて2番目ぐらいだった」から。徐々に、そこでも行き場を失い、「誰よりも体力があったから」と、サイドバックもやるようになった。中3に進級すると、1年間公式戦に全く出場できなかった。自分の代わりにピッチに立っていたのは、2つ年下の岡崎慎だった。

「僕が1年と練習をして、マコが3年の練習に混ざる。それが日常だった。その時は、苦しかった。それ以上に、同級生全員がライバルだと思っていたのに、そいつらには勝てなかった。それが悔しかった。同級生が試合に出る中で、それを応援しなきゃいけないのは正直つらかった」


渡辺は「監督本人も覚えていない」と笑いながら、この頃のあるエピソードを明かす。ふとした瞬間だった。山口隆文監督(現JFAアカデミー福島監督)から「両親も大きいから、これから身長が伸びるぞ。ヘディングの練習だけはしっかりやっておけよ」と声を掛けられた。ずっとスポーツをやってきたという両親や兄姉は、みんな体が大きかった。父の身長は180センチを超え、母も160センチ台中盤。だが、自分もそうなると、当時は信じられなかった。けれど、その言葉だけがなぜか心に残っていた。それが後の金言となることを、この時はまだ知らなかった。

耳に残っていた金言

FC東京U-18への昇格を逃し、高校は誘いを受けて山梨学院大学付属高校(現・山梨学院高校)へと進学する。その理由を後で知って苦笑いでこう続けた。

「うまいとか下手とかじゃなくて、総監督から高校サッカー選手権で優勝したときのムード―メーカーだった選手の雰囲気に似ていたから声を掛けたって言われたんです」


ただし、中学卒業を迎えたあたりからグングンと身長が伸びた。高くなる目線と一緒に、何かが変わり始めようとしていた。

「U-18への昇格を逃した時はいろいろ考えました。でも、その時は両親が支えてくれた。『向上心を持ってやらないとダメだよ。やるからにはトップを目指さないといけないし、無理だと思うのなら、そこでやめたほうがいい』。そう言われて、またサッカーを頑張ろうと思えた。今こうしてプロでプレーできていることを考えると、1番のターニングポイントは、少し体が大きくなって、高校1年生でセンターバックをやってみないかと言われたことだったと思う。そこで人生が大きく変わった。考えたこともないポジションだったし、始めからうまくいったわけではなかった。やり方もわからないし、フィジカルでも、高さでも、スピードでも全く勝てなかったので」

心に留めておいた言葉が、役立つ時がきたと思った。「まずはあの時言われたヘディングを武器にしよう」と居残り練習を始めた。「ちゃんと当たるまでは帰らない」と決めて、紐で吊ったペンディングボールに向かって何度もジャンプし続けた。だが、一人黙々と毎日続けた反復練習だけでは、克服できない壁も存在した。恐怖といつも隣り合わせだったのだ。

「ヘディングすることもそうだけれど、相手と競ることが怖かった。何よりずっと体も小さかったからぶつかって落ちるのが怖かった」

それがある試合で、ハイボールに対して勢い余って相手FWよりも先に宙へと浮かんだ。「タイミングを間違えたと思った」。けれど、思ったよりも体が宙に残ったまま、ボールを待つことができる感覚を覚えた。
「そこでボールをヘディングで返せた時に、『これだ』と自分の中で何かをつかめた。その感覚を意識しながらまた練習することで、本当に変わることができた」


高校を卒業するころには、クラスの背の並び順では最後尾に回った。「少年時代を知るコーチや、チー厶メイトたちからは今でも、言われるんですよね」と言い、掌を地面に押しつけるようなジェスチャーで「昔はこんなんだったのになって。考えられないよって」と、笑い飛ばす。

大きく、たくましくなったのは、体だけではなかった。続けてきたヘディングを武器に、気づけば高校サッカー界に、その名が広く知れ渡るようになっていた。

夢を語った仲間

「試合で、いろんなクラブのスカウトからも声を掛けてもらえるようにもなった。高卒でプロを目指していたけれど、正式な話は来なかった」

スカウトの目に留まるためには、大きなインパクトを残さなければいけなかった。その舞台となるはずだった、高3の全国高等学校総合体育大会初戦となった東海大翔洋との2回戦で、渡辺は痛恨のミスを犯してしまう。すでに2点リードを奪い、試合時間も残りわずか。勝利もほぼ手中に収めていたのに、ペナルティーエリア内で相手を引っ張り、2枚目の警告を受けて退場。チームは、そのPKを決められて1点差に迫られたが、2-1で3 回戦進出を決めた。しかし、「いらないファウル」で、続く東福岡高校との大一番に出場停止となってしまった。

「事前に、この高校総体で優勝した東福岡との試合には、多くのプロのスカウトが集まることも聞いていた。でも、その大事な試合に自分は立てなかった。チームもそこで負けてしまった。その後、監督と話をして『一番スカウトが集まると言われた試合に出場できない、おまえは持っていないな。いまJ1以外のチームに行くよりも大学に行ったほうがいい』と言われて高卒でのプロ入りは諦めました。その時、誰よりも自分が一番『持っていない』と思ったので」


中央大学に進学すると、時間は持て余すほどにあった。そこで、自分がどうなりたいかを考え続けた。

「有り余った時間をサッカーに費やせた人だけがプロになっていった。同級生の柏レイソルU-18出身の上島拓巳は、『オレはレイソル以外のクラブに入るつもりはない』と言っていた。それなら僕も『もう一度東京に入りたい』と、互いの目標にしようと決めた。絶対にプロになるという気持ちを入学した時から切らさず、ずっとやってきた」

ただし、「プロになりたい」という夢は捨てなかったが、「どこかで自信が持てず半信半疑だった」と言う。そんな大学時代の渡辺に、手を差し伸べてくれた人との素敵な出会いが待っていた。

前を向かせてくれたタケさんの言葉

中央大学の1学年上で、寮も同部屋で3年間を共に過ごした『タケさん』と呼ぶ須藤岳晟さんは、渡辺の大学時代を支えた恩人だ。

「ほぼ3年間毎日一緒に過ごしてきた。正直、サッカーがムチャクチャうまかったわけではない。同じセンターバックでコンビを組んだけれど、身長も大きくはなかった。でも、僕にとっては一番尊敬できる人だった。毎日のように話もしたし、とても熱い人でした。それは自分の人生にとって、貴重な経験でした。今でもタケさんは試合前に、頑張れよとか、試合後にナイスプレーというメッセージを送ってくれる」
タケさんはいつも周りを気に掛け、落ち込んでいる選手がいれば、「どうした」とすぐに声を掛けて膝をつき合わせた。誰からも慕われ、4年生ではキャプテンマークをつけるほど人望も厚かった。そんな先輩は、いつもアドバイスをくれた。そして、決まって背中をポンッとたたいて励ましてくれた。

「入学当初は負けに関わるミスも多かったんです。でも、落ち込む度に、『何も悩むことなんてない。おまえは絶対にプロになれるんだから』と、ずっと言い続けてくれた。本当に助けられました」


お世話になった先輩に支えられながらも、なかなかJリーグのクラブからオファーは届くことはなかった。大学3年生の冬を迎え、いよいよ岐路に立った。進路を決めなければいけない。選択肢は3つ。プロ入りを目指すか、就職活動を始めるか。それとも就職活動をしながらプロを目指すのか。

「その相談がしたくて両親に相談を持ち掛けようとメッセージを送ったら……」

そう言い掛けて当時の記憶が蘇ったのか、思わず吹き出した。

母・和代さんからは、すぐに返信がきた。そこに書かれた文面に『エッ』と驚き、反すうしてみると、少しばかりの怒気をはらんでいるようにさえ思った。


『就職活動するんだったら諦めたほうがいい。もしプロ入りが無理だったとしても、1年浪人してそこから就職活動すればいい。考えることは何もない、プロを諦めるんだったら就職活動だけにしてください』


「僕はただ会って普通に話したかったのに、オレの家だけですよ、相談さえできなかったのは」
少しの照れもありながら「でも」と言って、そこに言葉を足す。

「僕がサッカーと勉強の2つのことをできないと知っているからなんです。きっと『もしもサッカーと決めて挑戦してダメなら諦めもつくでしょ』って僕を押してくれたのだと思います」

そうやって退路を断つと、ついに大学4年生の夏にFC東京から声が掛かって練習に参加。そのまま2種登録でJ3のアスルクラロ沼津戦のピッチにも立った。いよいよ夢にまで見たプロへの道が開けた。それを誰よりも驚き、喜んでくれたのはあの両親だった。

「自分自身も夢の世界だった。あんな風に突き放したのに、いざうちの息子がテレビで見ている世界に入っていくなんて信じられないと思ったんでしょうね。『大丈夫、本当に。ウソつかれていないよね』って何度も確認された」

2つの大きな存在

8年ぶりに、恋い焦がれた青赤に袖を通した。ただ、甘くはなかった。誤魔化しが利かないプロの世界。ましてや目の前に立ちはだかったのは国を背負い、A代表を長年支えてきた森重真人とチャン ヒョンスの分厚く高い壁だった。周りの先輩たちからも冗談交じりに、「Jリーグでも試合に出るのが一番難しいクラブにきたね」とイジられた。練習でも肌感覚でビンビンと、その凄さが伝わった。

「すごいところにきたな」

そう思ったが、“諦めることはとっくに諦めていた”。現時点での負けは認め、チャン ヒョンスの背中について回ってトレーニングでもアドバイスに耳を傾けた。そうやって日々を丁寧に積み重ねる中で、かつては持っていなかったはずの男の運気が、いい方向へと転がり出す。


トップチームデビュー戦となった、3月6日のYBCルヴァンカップグループステージ柏レイソル戦で、いきなり初ゴールを決めると、4月28日のリーグデビュー戦となった松本山雅FC戦でも完封勝利に貢献。その後も出場した試合で、安定したパフォーマンスを続けた。

「あまりにもうまくいきすぎて怖かった。悪いことがこないかなって思っていました。でも、まさか……」
手応えが自信にもなり始めていた今夏、チャン ヒョンスがサウジアラビアの強豪アルヒラルへと移籍。思わぬ形で椅子が空いた。

「こればかりは運だと思った。そのタイミングで3番手にいられたこともそうだったけれど、全てがうまく回ったと思う」


チャン ヒョンスの抜けた穴を埋めるように、リーグ戦で優勝争いを演じるクラブのセンターバックとして大きな成長を遂げていく。プロ1年目の今季J1リーグで、ここまで15試合に出場1得点を挙げた。その道程で、ミスを次の糧とすることも忘れない。

そこには、これまでの地道な足取りが映る。大きな目標を掲げ、全体を見て今必要な武器をコツコツと磨いた高校時代。期間を定めて、計画的に集中して注力する。その成果を自分の言葉で人に話し、協力関係を築いた大学時代。そうやってインプットと、アウトプットを繰り返す。厳しい世界を生き抜く術を、遠回りだと思ってきたキャリアの中でごく自然と学んできた。それは、彼がずっと一つの目標に、実直に向かってきたからだろう。

「中学で諦めてもおかしくなかった。どうやってサッカーを続けていけばいいのか。いつもビクビクしていた。それがいろいろ巡り巡って、こうしていろんな人に支えられてこの場に立てている。だから、自分は『持っているんだ』と思います」

果てのない空

プロになっても相変わらず、両親からは「謙虚にいなさい。浮かれないようにしないと、テングになっている人を応援したいと思う人はいない。それはすぐに態度に出るから気をつけなさないよ」と釘を刺された。そのメッセージを見る度に、『うんうん』と頷き、自分を戒めてきた。

「テツさん(長澤徹コーチ)からも、よく『まだまだ底辺の選手なんだぞ』と言われます。それは、自分でも本当にそうだなって思う。中学時代、誰も僕がプロになるとは思ってなかったと思うし、今でも自分はすごい選手だとは思っていない。初心を忘れたら、また逆戻りするとわかっている。だからこそ、常に謙虚でいないといけない」

渡辺剛の周りには、ポジティブな言葉が集まる。それは彼が吐き出す言葉がいつも前向きで、いつだって高い場所を見上げているから、だ。だからなのか、自然と笑顔もあふれる。


そんな渡辺には、子どものころから口にし、プロ入り前から大学の寮の風呂場で湯船に浸かって仲間たちと語ってきた夢がある。翌年に控えた東京五輪出場。これまで招集の期待を集めながらも縁がなかったが、ついにそこに近づいた。世代別の代表発表の度に、2008年の北京五輪直前に滑り込み、本大会に出場した経験を持つ森重真人からは「大丈夫、大丈夫。まだ焦らなくてもいいよ。最後に絶対に入るから。最後に入るのが一番気持ちいいから」と、背中を押されてきたと明かす。

「今、新しい壁も感じている。ここで怯んだらのまれるのもわかっている。自信を持って立ち向かいたい。リーグ優勝した先に五輪があると思っている。チャンスを逃したくないし、やらなきゃいけないこともわかっている。もしも、かなうなら支えてきてくれた人にその姿を見せたい。タケさんからもずっと言われてきた。『大丈夫、大丈夫。プロに入って五輪に出場する姿がオレには見えるから』って。きっと、すごく喜んでくれると思う。好きなことで人を喜ばせることができるなんて幸せな職業だなって思います」


見上げた空に果てはない。浮かび上がるのは、ボール一つ。その風景に変わりはない。やることも一つ。そこに勇気を持って一歩を踏み出す。素直に、実直に、それを続けてきた。それが渡辺剛だ。こんないいやつの背中、誰だって押したくなるだろ――。やっぱり、剛はちょっとズルイ。



◇渡辺剛(わたなべ・つよし)プロフィール




text by Kohei Baba
photo by Kenichi Arai,Masahito Sasaki