馬場康平(フリーライター)コラム<br />
小泉慶「不易流行」

COLUMN2023.4.27

馬場康平(フリーライター)コラム
小泉慶「不易流行」

はじめはオフになると、片道2時間を掛けて地元の東京に帰っていた。でも、雪国の寒さを「これが新潟だよな」って思えるようになった時には、あの街が大好きになっていた――。


2014年に、小泉慶は流通経済大学附属柏高校からアルビレックス新潟へと加入する。選択肢は大学進学との二択だったが、「プロに行けるのであれば挑戦したかった」と進路を決めた。

「親元を離れて暮らすのも初めてだったので、最初はホームシックにもなりました。新潟と東京は新幹線で片道2時間。休みのたびに地元や高校の友だちと遊ぶために帰っていました。でも、時間が経つにつれて新潟の街がだんだん好きになっていった。寒いのも、最後の方はこれが新潟だよなって感じるようになりました。寮に2年間住んで、その後2年間一人暮らしをしましたが、ご飯もおいしかったし、新潟の街も気に入っていました」

18歳で初めて親元を離れ、右も左も分からぬ場所からキャリアをスタートさせる。新潟で過ごした4年間を紐解いていくと、そのはじまりの自らを苦笑いでこう語る。

「イケイケじゃないですか? 今はだいぶ丸くなりましたけど、最近の若い子を見ていても、その時の自分はやばかったなって思いますね」

返す刀で「どんな風に?」と聞き返す。小泉は「いやぁ」と頭をかき、こう続けた。

「試合をするたびに、対戦相手と喧嘩するような選手でした。ピッチ外のところでも若かったなって。振り

返れば、たぶん新潟じゃなかったら、どこかに飛ばされていた。その時は、本当にすごく良い先輩や監督に恵まれたのだと思います」


そんな“やばい選手のやばいデビュー戦”の話は、思わず吹き出してしまった。2014年3月29日のJ1リーグ第5節セレッソ大阪戦。その10日前のナビスコカップグループリーグ第1節の徳島ヴォルティス戦で公式戦初先発を飾り、フル出場したばかりだった。ベンチスタートとなった小泉は後半に入ってもスコアは動かず、「きょうの出番はなさそうだな」と思いながら試合を見ていた。

そう高を括っていると、突然名前を呼ばれた。同15分に田中亜土夢に代わって右サイドハーフでピッチに立つ。その数分後、左サイドで新潟の選手がファウルされて相手選手と言い合いになった。あまりにも興奮しすぎていた、小泉は頭に血が上って我を忘れた。気づいた時には、逆サイドまで走っていって目に入った選手全員にかみついていた。

「その後、セレッソの選手にムチャクチャ怒られました。そのぐらいすごく濃いデビュー戦でした(苦笑)。今でも覚えているし、今じゃ考えられないですけどね。日本代表クラスの選手相手にかみつきまくって、『おまえ誰だ』ってなっても言い返していた。そんなデビュー戦でした。今とは真逆で、何も知らないただの馬鹿という感じでした。今の東京も若い選手が多いですけど、自分に比べたらいいほうだと思います」

少々危なっかしい選手でも、新潟のチームメート、スタッフ、サポーターは温かく受け入れてくれた。「破天荒だったけど、お世話になった」という川又堅碁には可愛がられ、同世代の鈴木武蔵、松原健、小塚和季、舞行龍ジェームスといった選手たちと寮生活を送った。「本当に感謝しかないです」。1年目からリーグ26試合に出場するなど、順調な滑り出しをみせる。ただ、当時の柳下正明監督からは、毎日のように怒られた。


「高卒でそのまま何も考えずに本能のままプレーしたことが、良かったのかもしれない。ただ、毎日、怒られていました。僕にとってはまず戦うことができないと、試合には出られないことを教わった人です。技術的なこともたくさん言われたけど、球際だったり、戦うベースのところだったり、『根本的なことができないと、試合には出さないよ』という監督でした。そこは今の自分にもつながっている部分があると思います」

プロの階段を上り始めたばかりの小泉は柳下監督から厳しい勝負の世界の作法を教わった。また、新潟では後の自らをカタチ作った選手との出会いも果たした。レオ シルバのプレーを初めて見た時は目を丸くしたという。それほどの衝撃を受けた当時の印象をこう語った。

「相当すごかった。よく化け物っていいますけど、隣でプレーしていてこういう選手を本当の化け物って言うんだなって思い知らされた」

涼しい顔で、攻撃も守備も全力で取り組む背番号8に憧れた。それを横目に「18、19歳のオレがキツい顔なんて見せられない」と、張り合うように試合では何度も歯を食いしばった。

「人間性もとにかく真面目で、日本人っぽいブラジル人選手でした。こういう人が同じポジションにいるならこの機会を逃しちゃいけない」

そう思って、とにかく後ろをついて回った。毎日のようにポルトガル語の通訳を捕まえては、「聞きたいことは全て聞いた」。小泉の今を語る上で、レオ シルバは欠かせない選手となった。それほど大きな影響を受けた。

「ボールの奪い方がすごく独特で、普通の日本人なら足を出さないところでも足を出してボールを奪ってしまう。そのやり方や意識を教えてもらった。後は、手の使い方を口酸っぱく言われた。球際や、セカンドボールを拾わなかったらそのたびに怒られていました」

ちょっとやんちゃだけど、サッカーには真面目な小泉に対し、レオ シルバも嫌な顔一つせずに率先して面倒をみてくれた。

「レオからは盗めるモノは全て盗もうとした。だから、よくご飯も連れて行ってもらったし、隣で試合に出ていた時はよく怒られた。レオという存在が間違いなく自分を育ててくれた。レオが練習もちゃんとせずに、試合だけすごいという選手なら試合だけやればいいや思っていたのかもしれない。レオの姿を見て練習で真面目に取り組むからこそ、ああやって試合でパフォーマンスを出せるという考えに結びついた。だからこそ、練習が大事だということをあらためて教わった」


 デビューから3年を共にしたレオ シルバがチームを離れた、2017シーズンからは全てを教わった選手が背負った8番を引き継いだ。背番号に「こだわりは特にない」という小泉がそう思ったのは、後にも先にもこの時だけだったという。

「次の8番は必ず背負いたいと思っていた。あんまりそういうことは思わないけど、そういう気持ちにさせてくれたのはレオの存在があったから。自分にとってはそれだけ大きな存在でした」

その8番を背負った、新潟在籍最終年の2017シーズンは開幕から苦しみ、最終節を待たずに2004年のJ1リーグ昇格以来初のJ2リーグ降格が決まった。この年から副キャプテンも務めていた小泉にとっては「いろんな葛藤があった」と言い、こう続ける。

「もっと上をめざしたい思いや、自分の同世代でも代表に入っている選手や、海外に行っている人がいてそれを見て迷いや葛藤があった。それで、柏レイソルへの移籍を決断した」

新潟を離れた後も、胸にしこりが残った。気づけば、毎節の試合結果に自然と目を通す小泉がいた。

「自分が落としてからなかなか上がれないで苦しんでいた。当時は一緒にやっていたメンバーもいたので複雑というか、申し訳ないというか……。試合にも出させてもらって副キャプテンという立場でもあった。何回かキャプテンマークを巻いた試合もあった。もっとできたな、もっとやれたなと思うことは何度もあった」

自身も移籍した柏で翌シーズンJ2リーグに降格し、「そんなに人生は甘くない」と痛感した。時を経て2022シーズンに新潟はJ2リーグを制覇し、6年ぶりのJ1リーグ昇格を果たした。

「自分が落としてずっとJ2でやっていたのに、自分はJ1でやっている負い目はどこかに感じていた。だから、うれしいよりもホッとしたという気持ちのほうが大きかった」

小泉はキャリアを重ね、新潟から数えて5つ目の東京でプレーを続ける。そして、29日には初の古巣戦を控える。当時共にプレーした選手も数える程度になった。ただし、変わらぬあの熱さを知っている。


「新潟サポーターの印象は残っているし、怪我をした時に支えてくれたことも覚えている。新潟という地域は、みんながアルビを応援している。選手も存在を近くに感じていたし、サポーターの人たちはきっと覚えてくれていると思う。そこでの再会で自分が頑張っているところを見せられるのは楽しみ。デビューさせてもらったチームなので、ちゃんとプレーしている姿を見せないといけない責任がある。当時一緒にやっていたメンバーも新潟と言えば、サポーターの存在の大きさをよく口にしていた。それは僕も一緒なので」

初めて自分のチャントができた時の喜びも、支えてくれた感謝もあの日のままだ。だからこその言葉が続く。

「ブーイングなのか、拍手なのかは正直分からない。落ちて移籍してしまっているので、こういう世界で、よく思っていない人がいることも分かっている。ただ、いろんな思いがあったとしても、ピッチに立ったら今は東京のためにやるしかないと思っている。それでも、個人的に応援してくれているサポーターが新潟にもいると思うので、そういう人たちには感謝をプレーで伝えるじゃないですけど、良いパフォーマンスを見せたい。ピッチに立ってやるしかない。頑張るしかないです」

今シーズンでプロ10年目を迎えた。「振り返ってみれば早かった」というが、「J2降格も2回経験した。試合にもベンチにも入れない時期もあったし、出場試合数で計算すると、圧倒的に負けた試合のほうが多い。そういうことを振り返れば、思い描いていた通りではなかったかもしれない」。この先で、望むことはそれほど多くないという。

「(長友)佑都さんや、モリ君(森重真人)のような選手は36、37歳までトップクラスでできるけど、自分はそこまでの選手じゃない。30過ぎて走れなくなって、プレースタイルを変えてバランスを取るようになる。そういうのは好きじゃない。それなら辞めたほうがいいと思っている。そうやって現実を直視すると、現役もあっという間で終わってしまう。そう考えたら個人的な目標よりも優勝してぇなって。優勝すれば今までの試合に出られなかった時期や、降格したこともいい経験だってハッキリ言える。今だと中途半端すぎる。いい経験でしたとハッキリ言えない。優勝して初めてそういう言葉が言えると思うから」


だからなのだろう、勝ち方にこだわりがない。小泉がたびたび口にする「正直、勝ちゃいいと思っている」という言葉はそこに通ずる。

「最初に驚いたのはサポーターの熱さや、地域に密着しているところ。あらためてプロってすごいなと感じた。高校卒業したてで何も分からなかった僕の土台を作ってくれたのが新潟でした」

ピッチであれだけかみついていた“やばい選手”は、黙して語らずがお似合いの“アニキ”なんて呼ばれるようになった。ただし、変わらず譲れないことがある。キャリアの一丁目一番地で培ってきたことができなくなることを誰よりも自分自身が認めない。「走れない小泉慶なんて」、と。その全てを学んだ場所が新潟だった。

蓄えた走る理由が今も彼を動かす。不易流行――。変えてよいことと、変えてはいけないことをしっかりと見極める。そういう生き方が宿るところに、小泉慶の男臭さがにじむ。


Text by 馬場康平(フリーライター)