あの日見上げた空は、どこまでもつながっていた。そう思わせてくれるエピソードだ。
これは26年の時を経て日本で再会を果たした二人──“ヤマさん”の愛称で親しまれている山川幸則ホペイロと、柏レイソルを率いるリカルド ロドリゲス監督の話だ。

ヤマさんは高校時代にブラジル出身のホペイロを特集したテレビ番組を見て「これを仕事にしたい」と思った。だが、当時のJクラブで裏方として働いていたのは、大学サッカーのマネージャー経験者たち。福祉関係の短期大学を卒業後にアルバイトをしながらも、ホペイロの夢を諦め切れずにいた。
24歳の1999年、夢を追いかけて単身スペインへと渡った。藁にもすがる思いで頼りにしたのは、1998年のFIFAワールドカップ フランスを現地観戦した際にたまたま知り合った日本人ジャーナリストだった。
しかし、ジャーナリストから紹介された複数のクラブ関係者と面会したが、話がうまく伝わっておらず。海外のホテルで一人孤独を味わっていた。途方に暮れていると、そのジャーナリストがドイツ出張の流れでヤマさんを心配して様子を見に来てくれ、彼の口利きでレアル オビエドでホペイロの仕事を見学することを許された。
その見学初日だった。オビエドの用具係を務めていたドナート アユメントフェイトさんは高齢で足が悪く、荷物を運ぶのも辛そうにしていた。ヤマさんは自ら進んで荷物運びを申し出ると、翌日にはチームジャージを手渡されたという。

それから一週間後、オビエドに無給で働く日本人がいると、珍しがった地元テレビ局から取材を受けた。そのインタビューが放送されると、瞬く間にオビエドサポーターの間で話題となり、彼らの働きかけでチームの遠征にも帯同が許されるようになる。そこから選手やスタッフと親睦を深め、観光ビザが切れるまでの3か月間、ドナートさんの下でホペイロの技術や知識を学んだ。選手にも厳しい態度で接する師匠からは、愛ある金言をいくつも授かった。
ある日、せわしく作業をしていると、「そんなに走って、せかせか球拾いをするんじゃない。今日が人生最後の日と思ってもっと楽しめ」と、注意を受けた。さらに日本への帰国前夜に食事に出掛けると、ホペイロとしての心得を教わった。それを今も大切にしている言葉だという。
「食中毒を出すレストランは、たくさんのお客さんを相手にし過ぎるからそんなことになってしまうんだ。でも、その一人ひとりを自分の子どもだと思って接すれば、食中毒なんて出さないはずだろう。だから、たくさんいる選手たち一人ひとりを自分の子どもだと思って準備するんだぞ」
そのキャリアの出発点で出会ったのが、当時指導者の道を歩き始めたばかりのリチャードと呼ばれるアシスタントコーチだった。年齢も近く、言葉がそこまで話せないヤマさんのことをよく気に掛けてくれた一人だったという。

「リチャードは若手メインのセグンダBのスタッフでした。登録25人のトップチームに怪我人が出ると、セグンダBから選手が補充される。すると、一緒にトップチームにもやってきては、ロッカールームで選手たちを熱く鼓舞する盛り上げ役だった。二人いたホペイロの一人とも年齢が近かったので、遠征に行った夜はワインという名のお茶をよく飲みに行きました。僕自身があまり言葉をしゃべれなかったので、当時はそこまで深い話はできなかったけど、どこかに出掛ける時の手配を手伝ってくれたり、オフィスのスタッフに掛け合ってくれたり、普段の練習でも毎日顔を合わせていました」
夢を抱いて訪れたスペインへの修行旅で出会い、優しくしてくれた駆け出しの指導者にも別れを告げ、帰国後の2000シーズンから縁あってFC東京のホペイロになった。
月日が経ち、2017シーズンにロドリゲス監督が初来日し、徳島ヴォルティスの監督に就任する。ヤマさんは「世の中には似た顔の人がいるなと思っていた」という。その5年後、浦和レッズの監督となったロドリゲス監督のプロフィールにたまたま目を通し、あの“リチャード”が“リカルド”だったことに気づいた。
「浦和の監督になった時、プロフィールに『オビエド出身』って書いてあったので、そこで知りました。それが浦和で指揮を執った最後のシーズンで、すでに一度対戦が終わった後のタイミングでした。その次の対戦でもチャンスがあったけど、忙しくて会うことができないまま中国に行ってしまったので残念に思っていました」
再会はかなわず──。悔やんでいると、2025シーズンからロドリゲス氏が柏の監督に就任する。ヤマさんは「今度こそ話そう」と、一日千秋の思いで柏戦を心待ちにしていた。

一方のロドリゲス監督の下にも、スペインの地元記者からこんな連絡が入っていたという。
「オビエドの地元記者から『クラブの歴史を辿る記事を書きたい』と連絡があって、昔オビエドにいた日本人のホペイロが日本に戻っているはずなんだけど、どうにかコンタクトをとれないかと相談されたんだ」
その一報を受け、ロドリゲス監督は浦和レッズで一緒に仕事をし、同じスペイン出身で自分よりも長く日本で仕事をしていたジョアン ミレッ ゴールキーパーコーチに「当時、向こうで話題になったホペイロがいて、こんな話があるんだけど」と連絡した。
「それはFC東京のホペイロだよって教えてもらったんだ。彼はFC東京にいたからね」
2025年4月に行われた国立競技場での試合後、二人は26年ぶりに顔を合わせた。ヤマさんが競技場内の選手だまりで待っていると、その姿に気づいたロドリゲス監督が「あっ」と、頬を緩ませて近づいてきた。「オレが24歳の時にいたホペイロだろ。懐かしいな」と声を掛けられ、旧交を温めた。そこでヤマさんは「英語読みだったから分からなかった」と伝えた。
ロドリゲス監督も、ヤマさんとの再会を喜んだ。
「今から27年前に、オビエドのサテライトチームのコーチングスタッフの一人として働いていたんだ。そんな時、ユキはホペイロの技術を学びに日本からやってきていた。私はプレーヤーの時から『リカルド』を英語読みにしたニックネームで『リチャード』って呼ばれていて、ユキは『リチャード』で記憶していたからうまくつながらなかったと言っていたよ。国立でその話をして再会を果たせた。すごく嬉しかったよ」

ヤマさんは「世界は狭いんだな」と言って、スペインで育まれた不思議な縁を振り返った。
「オビエドで見たものは、本当に仕事の“触り”の部分でした。でも、ドナートさんは、こういうことをやっていたんだなと、のちに気づくことが一杯あって、スペインでの経験があとになって活きてきた。ここまで好きなことに携わってこられたことに感謝していますし、選手が困っていることがあったら何とかしたいと思ってきました。ドナートさんとの記憶を思い返すと、ただ言われたことをやっていてもダメなので。自分なりのやり方で、言わなきゃいけないことも伝えるようにしています。そうやって遠くの国のたった一つのチームにしか関わっていなくても、自分の人生のなかでリカルドさん以外にも何人かまた巡り合うというビックリする再会がいくつかありました。今はSNSがあるので、辿っていけば会える時代なのかもしれない。でも、不思議な縁はあるんだなって」
互いのキャリアの出発点で出会い、転がるボールを追い続けて26年ぶりの邂逅を果たした。
忘れられない空がある二人は、今また同じ空を見上げている。
(文中敬称略)
Text by 馬場康平(フリーライター)



