25年の軌跡 vol.1<br />
忘れてはならないこと

COLUMN2023.9.07

25年の軌跡 vol.1
忘れてはならないこと

1998年10月1日、東京は初の東京都をホームタウンにするプロクラブとして誕生した。

過去に遡ればJリーグが華々しく開幕した当初より、前身の東京ガスサッカー部がプロ化する機運はあった。強化を進めていたチームは1992シーズンにブラジルからアマラオを招聘。同シーズンに“社員選手”として加入した藤山竜仁は、1994シーズンにプロ契約を締結している。

しかしその後、プロ化を断念せざるを得ない状況に。それでもチームは歩みを止めず、地道に成長していこうとした。

1994シーズン、初出場の天皇杯でベスト8まで進出。日本フットボールリーグ(JFL)ではコンスタントに上位に食い込んだ。好成績に後押しされるように1997シーズンには再びJリーグへの参加を表明、プロ化に向けて意欲的な活動を続けた。同時にこのシーズンの天皇杯では、名古屋グランパスエイト、横浜マリノス、ベルマーレ平塚を撃破し、ベスト4進出を果たした。

「強く愛されるチーム」をスローガンに掲げ、1998シーズンのJFLでは、最終節で川崎フロンターレを勝点1差で上回り、“たなぼた”的に優勝をもぎとった。


当時の大熊清監督はサッカーの原理原則と、勝つための共通理解を徹底。アマラオの得点力を生かすべく、堅守速攻を貫いた。泥臭くとも走り負けず、最終ラインではサンドロや小峯隆幸が身体を張る。中盤ではバランスを重要視した。ボランチとして数々のビッグネームを獲得しながらも、長きにわたって浅利悟がポジションを勝ちとっていったことも印象深い。

Jリーグに戦いの舞台を移しても多くの社員選手を残し、継続性のあるスタイルで挑もうとした。ヴェルディやジュビロ磐田に対してリスペクトしながらも、Jリーグ後発組としてのメリットを生かし、時には先輩格のチームを半面教材としたからだ。

「ピッチに立てばプロもアマチュアも関係ない」――プロ選手として何者でもない彼らが、何かをつかみ取ろうともがいた1999シーズンのJ2リーグ。

開幕のサガン鳥栖戦は、国立西が丘サッカー場に3,685名の観客が訪れた。いまでは考えられないことだが「3,000人も!」という喜びにあふれ、熱気に満ちた戦いが繰り広げられた。

開始4分、加賀見健介のスルーパスから、ディフェンスの裏に抜け出した岡元勇人が瞬時の判断で浮かしたシュートを決める。このゴールは、J2リーグ第1号のゴールとして記録されているだけでなく、人々の記憶に残る東京の幕開けの瞬間でもあった。エースのアマラオも決めて2-0で白星発進すると、順調にJ2リーグで勝点を重ねた。

初参加したナビスコカップでは快進撃をみせ、準決勝まで進出。鹿島アントラーズをあと一歩のところまで追い詰め、佐藤由紀彦はニューヒーロー賞にも輝いた。

目前の1試合に全力を尽くす精神が結実した形となったが、カップ戦とリーグ戦の両立ができるチーム力、余裕はまだなかったといえるだろう。


ナビスコカップの後、再開直後のJ2リーグでは鳥栖に敗れたのを皮切りに連敗。5試合で勝点3しか得られなかった。最終節を前にベガルタ仙台に敗れ、3位に後退した時に選手たちは涙にくれた。

それでも誰が言うともなくみんなが集まり、「自分たちがやれること、やるべきことをやり切るしかない」と気持ちを切り替えたという。その一体感や戦い抜こうとする情熱が、劇的な昇格につながるのであった。

11月24日第36節アウェイでのアルビレックス新潟戦。加賀見健介が待望のゴールをマークし1-0で勝ち切った。一方、その時点で2位の大分トリニータは、89分にモンテディオ山形の吉田達磨にフリーキックを決められ、延長戦に入るという展開に。引き分けならば勝点1にとどまり、東京が2位に浮上する。

インターネットでの速報もない時代だったが、小林成光は大分にいる友人に電話をつなぎ、状況を聞き続けていた。大分と山形が引き分けに終わった瞬間、ベンチから真っ先にスタンドに向かって駆けだしたのは奥原崇だ。サポーターはスタンドから飛び降り、歓喜の輪ができた。それが許され、微笑ましく見られた大らかな時代でもあったが、「あきらめなければ何かが起こる」ことを体現。

ジャイアントキリングや幾度もの「劇的な展開」を巻き起こしてきたチームは、フットボール好きの(少々失礼な言い方をすれば)マニアックな人たちも虜にしたのだ。

常に「強く愛される」ための初心を胸に刻み、それぞれが途切れない情熱をサッカーに注ぎ続けた。それが、J1リーグにふさわしいクラブとしての土台を築いたことに間違いはないだろう。

時は周り、巡る。クラブの規模、チームの成熟度、サッカーを取り巻く世界や日本の環境も当時と現在では大きく異なる。より「Think global」を求められ、「Act local」だけでは生き残れない時代だろう。

それでも忘れてはならないことはある。目前の試合に全力を尽くす、最後まであきらめない――その闘争心や情熱が人々の心に灯をともし、勇気を与えてきたことを。


Text by 藤原夕(フリーライター)


※記事記載の年代当時のチーム名称を記載しています


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