青赤を支える反骨心

TOKYOism2021.10.19

青赤を支える反骨心

2年目のジンクス、という言葉がある。

プロスポーツや芸能界に見られる傾向のひとつで、アスリートであればルーキーイヤーに活躍したり、前年を大きく上回る成績でブレイクすると、翌年は得てして成績が悪化するというものだ。

安部柊斗は一見、このジンクスとは無縁に見える。

明治大学から青赤の一員となった2020シーズン、リーグ戦27試合に出場して2ゴールをマークしたが、プロ2年目の今シーズンはすでに30試合でピッチに立っている。得点こそ奪えていないが、ポジションがインサイドハーフからボランチへ1列下がったという側面もある。

何より際立つのは、チームにおける立ち位置だ。昨夏にロシアへと旅立った橋本拳人に代わってボランチの軸となり、チームに高いインテンシティをもたらしている。今や安部のいない“健太トーキョー”は、ちょっと考えられないほどだ。

ところが、当の本人はもがいていた。

思い描いたようなプレーができない自分に、チームを高みへと導けない自分に、安部は忸怩たる想いを抱えていた。

「1年目はフレッシュにガンガン行けましたが、今年はいろいろと考えすぎてしまった。拳人くんが移籍して、期待されているのは感じています。その期待には絶対に応えたくて、ガンガン行きたいけれど、今はボランチだから、攻守のバランスを見ないといけない、誰かが攻め上がったらカバーしないといけない、などと考えていると、前に出るタイミングを掴めなかったり。いろいろ見えるものが多くなった一方で、それが自分にブレーキを掛けることにもなっていて……」

長谷川健太監督の助言もあり、もうワンランク上のパワーを身につけるため、今夏にはチューブを使ったスプリントトレーニングに取り組んだ。コンディションが向上し、運動力や走力が増したという手応えがあった。

しかし、自身の理想とするパフォーマンスを出せないまま、チームも思うような結果を残せないまま、シーズンは半分を過ぎた。

安部の心を震わせるニュースが飛び込んできたのは、そんなときだった――。


人生を変えたコンバート

中学1年生から6年間、FC東京のアカデミーで“青赤魂”をたっぷりと注ぎ込まれ、高校1年生時には東京都選抜の主力選手として国体優勝も経験した。

トップ昇格こそならなかったが、大学サッカー界の名門、明治大学で2年時から主力として活躍し、最終学年になると、早々に古巣への復帰を決めた。そんな安部は、傍目から見てサッカーエリートに映る。

しかし、本人にそんな意識は微塵もない。

「FC東京U-15むさしのセレクションでは立場的に一番下でした。そもそもうまい選手がたくさん受験しに来ている中で、僕は1次、2次、3次と一つずつクリアしていって、ようやく合格した。背も低かったですし、周りの選手のレベルが高かったので、『こういう選手たちとやるのか』って、初めは緊張したというか。いざ加入してみると、自分には厳しいかな、と思った時期もありました」

転機が訪れたのは、中学2年生のときだった。トップ下からボランチへ――。ポジションを変更されるのだ。

安部を“新しい世界”に導いたのは、当時のコーチで、現在はスカウティングマネジメント部の小池知己だった。現役時代はボランチを本職とし、「ペルー小池」の愛称でファン・サポーターから親しまれたダイナモは、自身と似た資質を安部に感じたに違いない。

これが、安部のサッカー人生を大きく変えた。

「そこから毎試合のように起用してもらえるようになって、それをきっかけにグッと伸びた感覚があります」

とはいえ、FC東京U-18への昇格はギリギリだった。

安部ともう一人のどちらかだけが昇格できるという厳しい状況で、しばらく保留が続いた。その間、念のために高体連のセレクションを受けて合格したが、最終的には最後の切符を勝ち取った。

こうしてなんとかステージをひとつ登った安部は、ボランチとしてのプレースタイルを確立させていく。

「今のようなプレースタイルになったのは高校1年生の頃だと思います。もともと運動量や体力があるほうだったので。でも、なんでだろう……自然とボールを奪うことが武器になっていたというか。きっかけは分からないですが、いつの間にか今のようなプレースタイルになっていました」


東京には戻らない

東京愛とプロへの想いが大きく膨らんだのも、この頃のことだ。

もともと安部が住んでいた日野市はヴェルディのホームタウンである。実際、小学生時代にスタジアムで観戦したのも、ヴェルディの試合が多かった。

それにもかかわらず、FC東京のアカデミーのセレクションを受けたのは「ヴェルディはなぜか好きになれなかったから」だが、高校生となり、小平グランドで活動するようになって、隣で練習するトップチームへの憧れが強まっていく。

この頃には、トップチームの試合を観戦する機会も増えた。

カクテル光線に照らされた味の素スタジアムのピッチで躍動する選手たちに心が沸き立った。

安部がFC東京U-18に所属していたのは2013年〜15年の3年間。ランコ ポポヴィッチ監督、マッシモ フィッカデンティ監督がトップチームの指揮を執っていた時代である。

あのピッチで自分もプレーしたい――。

そんな想いを強めていく安部の目を釘付けにしたのは、相手選手に激しく食らいつき、ボールを奪い切る細身の選手だった。

「米本(拓司)選手。輝いていましたね。こんなに動けて、ボールも奪えるなんて凄いなって。同じポジションだし、似たプレースタイルだし、お手本にしないといけないと思っていました」

高校2年生から出場機会を増やし、高校3年生になる頃には、自身が味の素スタジアムのピッチに立つ姿がイメージできていた。ところが――。

「トップチームに上がれるんじゃないかと思っていたんですけれど、高校3年生の夏の面談で『厳しい』と言われて、え、無理なんだって。すごくショックでした。クラブから大学進学を勧められて、『明治はどうか』って。でも、その時点では大学のことは一切考えられなかったですね」

帰宅して、親と話し合った安部は「大学で頑張ればいいんじゃない?」という言葉に背中を押され、4年後に必ずプロになることを誓い、気持ちを切り替えていく。

と同時に、このとき、もうひとつ誓ったことがあった。

FC東京には戻らない――。

「当時、親にも言っていたと思います。絶対に帰らないって。すごく悔しかったので、見返したかったんです」

もっとも、反骨心を胸に新たな道を歩み始めた安部を待っていたのは、ベンチにも入れないという屈辱の日々だった。

大学1年生のときに出場した公式戦の試合数は、わずかに1。

「正直、トップに昇格できなかったこと以上にショックでした。1年を通してまったく試合に出られなかったので、メンタル的に相当きつかったです」

安部の気持ちを奮い立たせたのは、同期の存在だった。同じように公式戦に絡めなかった森下龍矢(名古屋グランパス)や瀬戸樹(横浜FC)、中村帆高らと競いながら、認められるまでとことんやってやる、と言わんばかりに筋力トレーニングと自主練習に励むようになる。

トップチームに昇格できなかった悔しさ、FC東京を見返してやるという反骨心に加えて、なぜ試合に出してくれないのか、大学で道を切り開くんだという強い思いが安部を駆り立てた。

「みんなで高め合いながら、腐らずに、上をめざしてやっていた。本当に素晴らしい環境で、仲間に恵まれたと思います。熱い気持ちを持った同期がたくさんいたから、頑張ってやってこられました」

こうして大学2年生の途中から次第に出場機会を掴むと、FC東京の関係者が毎試合と言っていいほど、安部のプレーの視察に会場を訪れるようになった。

「試合後に声をかけていただいたり。クラブを離れたのに熱心に見てくれるんだなって、すごく嬉しかったですね。やっぱり東京に戻りたいなって、だんだん思うようになっていったんです」



どの時代も東京が大事にするもの

明治大学の中心選手となった安部にFC東京から獲得の打診があったのは、4年生に進級する直前、2019年2月のことである。

その瞬間の喜びを、安部は大事に胸の奥にしまっている。

「プレシーズンの沖縄キャンプ中に、スカウティングマネジメント部長の石井(豊)さんに誘われて、紺野和也とカフェに行ったんです。そこで『オファーを出したいと思っている』と言っていただいて。ああ、決まるのかなっと」

クラブを離れても気にかけてくれた誠意に、絶対に戻らないという反発心が解きほぐされ、心の奥底に閉じ込めていた東京愛が呼び覚まされたのは間違いない。

しかし、東京入りを決めた理由は、それだけではなかった。

「U-18時代に応援してくれていたファン・サポーターの方々も、大学の試合を見にきてくださって、『帰ってこいよ』と声をかけてくれたり。そういうのも嬉しかったし、自分のプレースタイルと東京のサッカーは合っているんじゃないかと。東京なら活躍できると思ったのも理由のひとつでした」

“東京のサッカー”とは単に、長谷川監督の志向するスタイルだけを意味しているわけではない。

サッカーのスタイルは、指揮を執る監督によって異なるものだ。しかし、その根底に流れる東京のDNA、いつの時代も大事にされ、アカデミーで徹底的に叩き込まれるものは、変わらない。

戦う姿勢であり、走ることであり、諦めないこと――。

それこそが、安部の強みであり、大事にしてきたものだった。

「U-18の監督だった佐藤一樹監督はすごく熱い方で、球際とか運動量、切り替えの部分は毎試合のように言われて、それが自分に浸透していった。今の自分のストロングは、間違いなくその頃に伸びたものです」

長谷川監督のスタイルに合致した安部がルーキーイヤーの2020シーズンに残した成績は、胸を張っていいものだ。

2年目の今シーズンは中盤で替えのきかない存在となりつつある。とはいえ、リーグ優勝をめざす、そのチームの主軸になる、5ゴールを決めるという3つの目標を掲げていた安部にとって、満足のいくものではない。

ポジションが1列下がったことが、未だノーゴールの言い訳にならないことは、安部自身がよく分かっている。

今、意識しているのは、FC東京U-15むさしの大先輩である名古屋グランパスの稲垣祥だ。稲垣はFC東京U-18への昇格を逃し、帝京高校、日本体育大学、ヴァンフォーレ甲府、サンフレッチェ広島、名古屋グランパスとステップアップを果たし、日本代表まで上り詰めた努力家である。

「稲垣選手はボランチなのに、リーグ戦で8点も取っている。稲垣選手のようにミドルシュートを磨かなければいけないし、(ボランチでコンビを組む)青木(拓矢)選手との連係をもっと磨いて、自分もどんどん飛び出していかないといけない」


世界を知る男は、刺激でしかない

目標を高く置く者にしか見えない壁にぶちあたっている安部にとって大きな意味を持つのが、長友佑都のFC東京復帰である。

このタイミングでの大先輩の帰還は、サッカーの神様から安部への贈り物と言えた。

明治大学の大先輩である長友は言うまでもなく、世界のトップ・オブ・トップを知る選手であり、反骨心を胸に這い上がってきた安部のはるか上を行く、まさに“反骨心の塊”のような不屈の男である。

「もう刺激しかなくて、何から何まで学ぶことばかりです。プレー中には、佑都くんが僕と左サイドハーフの選手とで三角形を作るようにといったアドバイスをくれますし、『セカンドボールは絶対に負けるな』って叱咤してくれる。コンディショニングやプレー中の声かけとか、吸収しないといけないことがたくさんあります」

なかでも安部を驚かせたのが、コミュニケーション能力である。もちろん安部も、イタリア、トルコ、フランスと、どの国のどのクラブに行ってもムードメーカーとなってきた大先輩の“コミュ力”の高さは想像していた。

だが、想像を大きく超えていた。

「練習中も止まることなく声を出したり、指示を出したり、鼓舞してくれたり。ブラジル籍選手とも英語やイタリア語を使ってコミュニケーションを取っていて、これまでなかなか伝わらなかったことを伝えてくれている。本当にありがたいというか、それが経験だと思います」

「強い東京を作る」と公言する長友はきっぱりと「チームの雰囲気が緩い」と指摘した。その言葉を安部はしっかりと受け止めている。

「佑都くんが入って雰囲気がピリッとしたのは確かです。決して緩かったわけではないですが、やっぱり引き締まったというか。練習のピッチ内でもよりバチバチやり合うようになりました。指摘してくれる人がいるおかげで気づくことができたと思います」

世界を知る男とともにプレーするようになり、改めて目標がはっきりと像を結ぶようになった。

「日本代表に絡んでいきたいです」

安部はこの夏、複雑な思いを抱えていた。東京オリンピックでベスト4に進出したU-24日本代表は、1997年生まれの安部にとって、同世代の選手たちだ。

「正直、ちゃんと見られなかったですね……。頑張ってほしいという気持ちはありましたが、悔しいという思いもあって、見たいような、見たくないような……いろいろな感情になってしまいました」

今やFC東京を背負う存在となった安部が、あいつらには負けていない、という反骨心を抱いたとしてもおかしくはない。年代別代表はオリンピックが最後。あとはもう年齢制限のない日本代表しかない。

その目標を叶えるためのスタンダードを知るうえでも、大先輩の存在は大きいはずだ。

「日本代表に選出されている選手は、海外でプレーしていたり、海外から帰ってきたり、そういう選手が多い。そこに割って入るには、自分も意識を高めて、もっと上をめざしていかないといけないと思います」

いつの時代も、スタートから先頭を走ってきたわけではない。悔しさを胸に一歩、一歩踏みしめて、ステージを上げてきた。

小平グランドでの日々の努力が、輝かしい未来に繋がっている――。

そう信じて、安部はタイトル獲得と、日本代表入りを狙う。



安部柊斗(あべ・しゅうと)プロフィール

生年月日:1997年12月5日
身長/体重:171cm/67kg
出身地:東京都日野市
経歴:FC東京U-15むさし → FC東京U-18 → 明治大学 → FC東京

文=飯尾篤史
text by Atsushi Iio
写真=新井賢一
photo by Kenichi Arai