国立競技場の記憶 vol.15 #ThisisTOKYO

COLUMN2022.4.12

国立競技場の記憶 vol.15 #ThisisTOKYO

いよいよ4月29日(金・祝)に、東京が新国立競技場で初のJリーグを戦う。

改修前の国立では、Jリーグ加盟初年度から多くの公式戦を戦ってきた。思い出に残るスーパープレーもあれば、インパクトのあるイベントもあった。悲願のタイトル獲得以降、東京がすべてのタイトルを国立で獲得していることは、東京と国立の深い縁を象徴している。

俺たちの国立。

This is TOKYO.

新しい一歩を国立で刻む前に、これまでの国立に残してきた足跡、思い出を当時の写真とともに振り返る。

2013年 国立漢の恩返し

【試合情報】
2013Jリーグ ディビジョン1  第25節
FC東京 3-2 浦和レッズ


シャイな怪物の大仕事だった。2013年9月14日、J1リーグ第25節浦和レッズ戦。気が遠くなるほど続いた〝赤の呪縛〟からようやく解き放たれ、浦和から3287日ぶりの勝利をつかみ取った。その歓喜の輪の中心にいたのは、やっぱり“国立漢”だった。


電光掲示板のスコアは2-2。まもなく時計は90分を回ろうとしていた。

正直、「またか」というゲーム展開だった。ランコ ポポヴィッチ監督が東京の指揮官に就任した2012年から2シーズンに渡って、浦和戦は決まってノーガードの殴り合いだった。この試合まで3試合連続の引き分けが続いていたが、両監督の因縁も含めて外れなしの面白さはあった(ただし、試合後の両監督の会見はめちゃくちゃ長かった)。この日も2点のリードを守れず、引き分けムードも漂い始めていた。


だが、試合終盤に途中出場した平山相太はあきらめていなかった。「選手も、ファン・サポーターも勝利を求めていた」。

そのあきらめない男に、最後のチャンスが転がってきた。ピッチ中央の右サイドでフリーキックを得ると、これを太田宏介が左足でゴール前に蹴り込んだ。鋭く弧を描く弾道に、背番号13は体を投げ出して飛び込んだ。不格好だが、泥くさく頭に当たったボールは、地面を蹴ってゴールに飛び込む。それを見届けた平山は観客席のフェンスをよじ登り、ゴール裏で待つ東京サポーターの前に立った。拳を振り上げ、力の限りに叫んだ。

そのゴールセレブレーションには感謝の思いが詰まっていた――。


「ここ数年、怪我で自分のプレーが見せられなかったのに、東京のファン・サポーターは自分をずっと応援し続けてくれた。あのゴールの時点で勝利を確信したわけではなかった。でも、限りなく近づけた。だからファン・サポーターと喜びを分かち合いたかった」 

J2リーグを戦った2011年に、エースと目されながらも4月の練習試合で右足の脛骨と腓骨を骨折。初めての大けがだった。その翌年も長期離脱を経験し、2年間実戦からほぼ離れてきた。この年の開幕前には「環境を変えたほうがいい」と思い、移籍を模索した。本格的な交渉の席に着くところまで話は進んでいたが、直前で思いとどまった。自分自身が気乗りしていないことに気づいたからだ。

「いざ、このチームを離れるのかと思うと、やっぱり東京のことが好きだという気持ちの方が勝った。ここで一からやり直したいと思えた」

みんな相太が大好きだった。どんなにベンチを温めることが多くても、平山がタッチライン際に立つ度に青赤の歌唄いたちは大歓声で迎えてきた。それに、「いつも本当にありがたいです」と、言い続けてきた。

その後もケガに苦しみ、2018年1月に引退を決断する。3月に味スタで行われた引退セレモニーで、平山はサポーターにこう語りかけた。

「自分が一番印象に残っているのは、京都で降格が決まった後の声援と応援。今回自分が引退を決めた時に、降格が決まった後の声援が自分の中で響いた。これから人生の中で苦しい時があっても、その声援が自分の中で響いて、前進するための後押しになってくれる。これから第2の人生が始まりますが、仙台に移籍して出会ったご縁、第2の人生に進むことになったご縁、FC東京で一番苦しい時にいただいた声援を、自分のこれからの糧として生きていきたい。本当にありがとうございました」

思いを言葉にするのは得意じゃない。でも、その不器用さも人には魅力的に映っていた。なぜなら、味スタで誰よりも大きな歓声を浴びたのは、他ならぬ、このシャイなストライカーだった。


記憶の中には、多くの豪快なゴールも刻まれている。だが、そのどれよりも印象深い。この日の不格好な得点には、それほど筆舌に尽くしがたい美しさがある。

Text by 馬場康平(フリーライター)