国立競技場の記憶 vol.13 #ThisisTOKYO

COLUMN2022.4.10

国立競技場の記憶 vol.13 #ThisisTOKYO

いよいよ4月29日(金・祝)に、東京が新国立競技場で初のJリーグを戦う。

改修前の国立では、Jリーグ加盟初年度から多くの公式戦を戦ってきた。思い出に残るスーパープレーもあれば、インパクトのあるイベントもあった。悲願のタイトル獲得以降、東京がすべてのタイトルを国立で獲得していることは、東京と国立の深い縁を象徴している。

俺たちの国立。

This is TOKYO.

新しい一歩を国立で刻む前に、これまでの国立に残してきた足跡、思い出を当時の写真とともに振り返る。

2012年 初戴冠とルーコンと通訳の献身

【試合情報】
第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会 決勝
FC東京 4-2 京都サンガF.C.

FC東京を天皇杯初優勝に導いたのは、笑顔がとてもよく似合う水先案内人だった。


2011年5月12日、通訳の飯野一徳は地球の真裏にいる戦友の携帯電話を鳴らした。

その日は、ルーカス セベリーノ(ルーコン)の愛する妻の誕生日。ルーコンとは2004シーズンから4シーズン、選手と通訳としてFC東京でともに戦った仲間だ。2008シーズンにG大阪に移籍してからも、2人の友情は変わらなかった。

2010シーズンを最後に日本でのプレーに終止符を打ち、家族とともに母国のブラジルに帰国した後も2人は頻繁に連絡を取り合ってきた。自分が育ったアトレチコ パラナエンセに戻り、順調だと聞いて飯野は安心していた。この日も妻へのお祝いと、互いの近況報告を兼ねた電話のつもりだった。だが、ルーカスの「実は…」の後に続いた言葉に、飯野は驚くことになる。

「もう現役を引退したんだ。ブラジルではよくあることだよ、サッカーの嫌な部分が見えてしまったんだ」

この突然の告白を受け、飯野は行動に移した。当時の大熊清監督と強化部にも報告。折しも、クラブは平山相太がけがで長期離脱し、降格したJ2リーグで苦戦が続いていた。チームの起爆剤として迎えるべく、ルーコンの東京復帰に向けた水面下の交渉が始まる。

「もう一度、一緒に戦おう」

飯野がそう話しても、初めは色よい返事は返ってこなかった。「ダメダメ、もう引退したんだ。ノーチャンスだよ、イイノ」。それでも、引き下がらなかった。何度も何度も「今、東京は大変なんだ。助けてくれ」と、呼び掛け続けた。最後は、根負けしたルーカスから「恩がある東京のために」という返事を引き出した。だが、飯野は「引退を撤回した理由はもう一つあったと思うんです」と言い、こう続けた。

「あまり口にはしなかったんですが、自分が思い描いた形で引退できなかったことをルーコンは悔いていた。それが決断を後押しした理由の一つだったと思う。もう一度、サッカーに戻って良い形で現役を終えるのが彼の希望でした。だから、日本に戻ってきたときに、動けない状態じゃいけないって。復帰を決断してからブラジルでみっちりとトレーニングを積んでしっかりと体をつくって日本にやってきた」

ルーコンが復帰したFC東京はJ2を圧倒的な強さで制し、1年でのJ1復帰という大目標を達成する。

そして、勝ち残っていた天皇杯では浦和レッズを準々決勝で破り、準決勝ではセレッソ大阪を撃破する。決勝戦を前に、ルーコンが選手たちに「元日の国立で優勝したら清々しい気持ちになるんだ。本当にすばらしい瞬間を味わえるよ」と、呼び掛けてチームは結束する。


2010シーズンにともにJ2に降格した京都を相手に臨んだ、初のJ2クラブ同士の元日決戦。


先制点を奪われるも、この日の東京は本当に強かった。今野泰幸がセットプレーから同点ゴールを決めて落ち着けと周りを諭し、森重真人の無回転ミドルで一気に逆転。圧巻は、後半のルーコンの独壇場だった。2得点を挙げて京都を退け、初戴冠を成し遂げた。




ルーコンは、その後13年まで現役を続け、惜しまれつつもスパイクを脱いだ。あの日、国立で輝いたビッグスマイルは、彼の輝かしいキャリアのハイライトの一つとなった。その陰には、戦友の花道をつくろうと動いた通訳の献身があった。

Text by 馬場康平(フリーライター)