COLUMN 2026.7.12

夢の継承が紡ぐ物語

このリドルストーリーのプロローグは、こう始まるのかもしれない。

「青赤には奥原崇という10番がいました。あれこれと空想するのが大好きで、自分がひらめいた空想を、思いどおりに現実にしてしまう男でした」と。

FIFAワールドカップ2026はノックアウトステージに突入し、さらなる盛り上がりを見せている。その最中、一人の選手が旅支度を整えて海を渡った。

小さい頃からの夢だった欧州挑戦を叶えた佐藤龍之介は機上の人となる直前、こんな言葉を吐き出した。

「明治安田J1百年構想リーグでは、最初は出遅れてしまったけど、結果としてチームを引っ張ることができたと思う。シーズンの終盤は自分がこのチームの中心で、エースという自覚を持ってプレーで示せた。ラ リーガ(スペイン)には日本人選手も少ないし、簡単な道ではないと理解もしている。それでも、自分はそういった場所でチャレンジしたい想いが強いし、世界で活躍する選手になりたい。今以上に頑張るしかない。(ワールドカップは)悔しい想いをしながら観ている。でも、自分が今の舞台に出て活躍できるかと言われたら100パーセントの自信はまだ持つことができていない。それが正直なところなので、ここからの4年間でそこを埋めて、次の大会では中心としてピッチに立っていたい」

7月7日、FC東京は龍之介のスペインの名門バレンシアCFへの完全移籍を発表した。そのリリースに綴られた言葉は、まるで10年を過ごした青赤と、2025シーズンを戦ったファジアーノ岡山に向けた感謝の手紙のような文面だった。その理由を、こう語った。

「FC東京には10歳くらいで入ったので、約10年間たくさんの思い出があります。東京でなければここまでくることはできなかったと思うので、いろいろなスタッフ、コーチと出会えて、それぞれの方々にいろいろなことを教わったと思います。アドバンスクラスの頃から濃い思い出なので。それぞれが真摯に自分と向き合ってくれた」

その一人である青赤の初代10番、奥原崇は自身がユニフォームを脱ぐ時、心に決めたことがある。

「いつかFC東京の10番を日本代表の10番に。僕は、そういう選手を育てたい」

そうやってトップチームやアカデミーで指導者を歴任し、育成部長時代に龍之介と出会った。

「身体のサイズは少し小さくてハッキリとした特長がある選手ではなかった。けれど、プレーの意思みたいなものはすごくあるように映っていた」

それがFC東京U-15むさしに入ったばかりの第一印象だったという。外から見守るなかで、その印象ががらりと変わった瞬間があった。

「上の学年が入ると、萎縮して自分をうまく表現ができていなかった。ただ、同世代では少し気の荒いところも魅力的に映るくらいにすごく意志があって、やりたいことがハッキリと伝わってきた。自分がやりたいプレーを周りにも伝えて、ゲームのなかで表現しようともしていた。僕自身、すごく好きなタイプの選手だと思えた」

2022年、奥原がFC東京U-18の監督に就任したタイミングで、龍之介も昇格する。奥原は指揮官として龍之介の高い感受性を刺激し続けた。二人組の技術練習では、当時のエースだった熊田直紀(現在はいわきFCへ期限付き移籍中)と組ませた。「クマも面倒見がいいし、リュウも上との付き合い方がうまい。お互いの反応が良くて、うまく二人が躍動してくれた」。そうやって龍之介を自然とチームに組み込んでいき、1年時から高円宮杯JFA U-18サッカープレミアリーグのスタメンに抜てきする。コンスタントに試合出場を続けた、その最終節だった。

「3年生にとっては引退試合で、桐生第一高校に負けてしまった。その試合で、リュウは絶不調だった。3年生同士は代えたけど、あいつだけは絶対に代えなかった。その意図が分かっているから……。僕は年間5回くらい泣いたけど、リュウはあの時たぶん10回くらい泣いています(苦笑)」

その試合後の締めの挨拶、奥原はあえて「龍之介」と指名した。すると、感情を抑えられなくなった龍之介は──。

「ぶわっと目に涙を溜めながら『3年生の大事な試合なのに僕が不甲斐なくて……』と話していた」

3年生がチームを去る、その日までそうしたことが続いた。

「あの言葉や感情には嘘がなかった。そういう選手だからこそ、チームを託せると思った。新2年生だけど、リュウに翌年の10番を託した」

2023シーズンは開幕前のキャンプからトップチームに帯同し、U-18と2チームを行き来する生活が続いた。

そして、グループステージから決勝まで全試合にフルタイム出場した、夏の第47回日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会。準優勝に終わったが、この恩師と教え子にとってかけがえのない時間となった。毎試合後、熱気の残るピッチの脇で奥原と龍之介は膝をつき合わせて二人で話し合うことが恒例となっていた。その理由をこう明かす。

「毎試合後に3分、5分くらいのミーティングで試合の振り返りをしていた。自分のプレーではなく、チームがどうだったか。どうすれば引き分けを勝ちに持ってくることができたのか。どうすれば得点できたのか。リュウに試合を背負わせて、そういうゲームコントロールの部分を任せた。トップチームでプレーするには喋れないとダメだし、全体感で何が起こっているのかを言動で見せられるくらいになってほしかった」

大会を通じて徐々に吐き出す言葉が変化し、終盤には「サブの選手が良い雰囲気を作ってくれたと話すようになったり、選手起用の意図を聞いてきたりしていた」と言い、奥原は目を細めた。

教え子も、数年前のこのエピソードを懐かしむようにこう振り返った。

「本当に自分のなかで今でもすごく生きています。奥原さんは特に自分としっかりと向き合ってくれたし、たくさんのことを教わりました。日常のサッカーとは関係ないところも含めて、安心している時は引き締めてくれる存在でした。苦しい時は一番近くで支えてくれました。本当に感謝しています」

その真価が発揮されたのが、明治安田J1百年構想リーグだった。大会MVPと得点王をダブルで受賞したAFC U23アジアカップに参加していたことでリーグ序盤は出遅れたが、徐々に攻守でチームをけん引。19試合6得点1アシストの大活躍を見せた。その活躍は海を越えて欧州へと響き渡り、6度のリーグ優勝を誇るスペインの名門クラブなどからの獲得オファーを手繰り寄せた。

「魅せるプレーを意識しているわけではない。やっぱり自分はサボらずにハードワークして、攻守において汗をかいて戦える。そういうところも誰かが背中を押してくれる要素なのかもしれない。そのうえで攻撃では違いを作れるようになってきた。お世話になったFC東京に移籍金を残して旅立つことを目標にしてきた。そこは嬉しく思うと同時に、いろいろな人の支えと応援があったからこそ、ハーフシーズンで活躍してオファーをいただけたのだと思う。新たな国では今まで以上にすべての面でレベルが上がるけど、自分ならできると信じている。活躍して少しでも良いニュースを日本に届け続けることが恩返しになっていくと思うので、さらに世界で大きな選手になりたいし、背中を押してほしい」

夢を叶え、欧州へと旅立ったが、満足する様子は少しもなかった。

日本はワールドカップのノックアウトステージ初戦でブラジルに1-2で敗れ、夢半ばで大会を去った。あの場に立つことはできなかったが、4年後の次回大会に向けて新たな景色を見せる選手としての自覚と責任は持っているつもりだ。

「同世代のなかで突き抜け続けたい。これから、もう若いとは言えない年齢になっていく。僕みたいな選手が代表の中心にいち早くなることが、次の新たな景色を見るためにも必要なことだと思う。自分自身がそうした存在になっていきたい」

旅立つ男に、青赤の歌唄いたちは味の素スタジアムで惜別の横断幕を掲げた。

世界で輝け 青赤の龍之介──。

自分と向き合い、チームを背負うことを学んだ龍之介はまるで背番号10の心得のような言葉で彼らの想いに応えようとしている。

「日本人が誰も到達したことのないようなステージに上りたい。ラ リーガで、バレンシアで活躍したら、今まで誰も見たことないようなところに辿り着ける。その可能性を秘めたクラブだと思っているので。誰かを超えるというより、自分のキャリアや選手像を確立していきたい。自分の背中を押してくれる人がたくさんいることは本当に幸せなことだし、自分はそういう人たちを大事にしていきたい。これからも応援され続ける選手になりたいし、世界中にそういう人たちが増えれば嬉しい」

そして、奥原の夢は、いつしか龍之介の夢にもなったという。

「それは自分の夢でもあります。奥原さんのためにというよりも、自分の目標として自分自身が掴み取りたい。いずれ日本の10番となって、日本のエースとしてみなさんの前でプレーしたい。いってきます!」

夢の継承が紡ぐ物語は、まだ幕を開けたばかり。旅立ちのあわいで口にした言葉たちはこれからスペインの地で育まれていくはずだ。

少しのためらいもなく右側の扉へ進み、それをガラリと開けると──。

果たして、開いた扉から飛び出してくるのは、日本代表の10番を着た佐藤龍之介なのか。それとも別の選手なのか。

フランク R ストックトンにも分からない。ただし、佐藤龍之介だけが、その結末を自由に描き変えることができるのだ。

(文中敬称略)

Text by 馬場康平(フリーライター)
Photos by Kenichi Arai